出ないための鍵 10
ドライヤーは、彼女が取りに行きづらいところにあるのだろうか。
彼女の次の言葉が出ないので、僕は一番気に掛かっていたことを口にした。
「お手伝いさんとは、うまくいっているんですか」
彼女は両手をひざにそろえたまま、首をかしげた。
「うまくいっているかはわかりませんけど、気を遣ってくれているのを気にしなくなりました」
表情は変わらなかった。
「よかったですね」
僕は雨に濡れた体が冷えてきていたが、笑顔をつくって言った。
「いいんでしょうか、これで」
「何がですか」
彼女の一文は短い。
ひざの上にそろえている手を見つめる。
「人の思いやりを、無駄にするみたいで」
僕は間髪を入れなかった。
「いいんじゃないですか。したくてしていることなんですから」
彼女は髪だけは乾いていない。
前髪のへばりついた顔で僕を見る。
「気持ち、伝わっているじゃないですか。なくなったらさびしいでしょう」
彼女は虚をつかれたように僕の目の奥を見る。
「親切にしなくてもいいんですよ」
出ないための鍵 9
お盆に氷を入れたアイスコーヒーのグラスをのせて彼女が戻ってくると、チワワも一緒に戻ってくる。
彼女は僕の前のテーブルにグラスを置いた。
ガツン、と音がした。
来客の相手をするのはいかにも不慣れな感じだった。
「ごめんなさい」
「いや、大丈夫」
チワワは、彼女が座っていたソファの足もとにフセをした。
アイスコーヒーは紙パックで売られているものの味がした。
思っていたよりのどが渇いていたようで、半分ほどを一気に飲むと、四角い氷がごろごろ出てきた。
父親が帰って来るのなら、着替えを貸すと言ってくれてもよさそうなものだが、彼女は何も言わなかった。
僕から言うのも気が引けたし、もし言ってくれたところで断るとは思うが、それでも言ってほしいと思った。
言葉だけのことは言えない人なのだろう。
彼女は、これ以上の配慮を示せなくて落ち着かないようだった。
彼女はカーペットの上からチワワを抱き上げ、膝にのせた。
濡れて脚にへばりついていたドレスは、もう乾いてきていた。
僕のチノパンは綿だからなかなか乾かない。
「あの、ドライヤーを」
「お手伝いさんは」
二人の言葉が同時に重なった。
彼女は口をつぐんでしまった。
出ないための鍵 8
玄関のタイル敷きの土間にはバケツが置いてあり、濡れぞうきんがかけられていた。
チワワは彼女にあしを拭いてもらい、玄関の床に下ろされると、廊下の右側のドアの開いた部屋へ小さなあしを動かし入っていった。
彼女は同じぞうきんで自分の泥だらけになった足を拭き、
「もう一枚持ってきますから」
と言って廊下の奥に走って行った。
ぞうきんを持って戻ってきた彼女は、僕に渡した。
そして、廊下右側のチワワが入っていった部屋へ入っていった。
リビングのようだ。
僕は、濡れたチノパンのひざ下の泥しぶきをぞうきんで払うように拭き、靴をざっと拭いて玄関に上がった。
彼女の後をついていくように右側の部屋に入った。
やはりリビングで、細かい柄のカーペットと古い茶だんすが目を引いた。
キッチンを背にして3人掛けのソファと、ひとり掛けのソファがあり、彼女はひとり掛けのソファのほうにひざをそろえてきちんと座っていた。
背もたれに寄りかからず体を緊張させているけれど、顔は緊張していなかった。
チワワが、くんくんとにおいを嗅ぎながらリビングを歩き回っているが、気にならないようだ。
「どこでも、どうぞ」
どこでもと言われても、3人掛けのソファしか座れるようなところがないので、ソファの真ん中に座った。
ソファを濡らさないように浅く腰かけた。
「じきに、乾くと思いますよ」
乾きそうもないが、雨が弱まれば出て行かなければならない。
「何か、飲みましょうか」
彼女はぎごちなく立ち上がった。
「いや、お構いなく」
僕の返事を聞いても聞かなくても変わらないようだった。
彼女が立つとチワワがついていく。
出ないための鍵 7
家の前に着き軒下に入ると、僕は彼女の傘を受け取りたたんだ。
彼女は玄関ドアのノブをおもむろに手前に引いた。
ドアは開かなくて、彼女の体がガクンと揺れる。
彼女はチャイムのボタンを押す。
何も反応がない。
「こんな雨なのに、タエコさん、出かけたのかしら」
彼女はひとり言を言い、チワワを抱えたまま途方に暮れた顔つきをする。
「ぼく、持って来てますよ」
ポケットかららでん細工のはめ込まれた鍵を取り出して、鍵穴に差す。
右に回すと、カチャッといかにも正解のような音がする。
鍵を抜いてドアノブを引くと、ドアが開いた。
「どうぞ」「どうぞ」
二人同時に家の中へ入るようジェスチャーをした。
おかしくなって、二人で笑った。
チワワを抱っこしている彼女から家に入った。
出ないための鍵 6
彼女は僕たちの目の前にかぶるように垂れている枝先の向こうの、雨でグレーに見える住宅街をぼうっと見ながら言った。
僕のチノパンは地面からの跳ね返りでずいぶん濡れてしまっていた。
それよりも、薄着の彼女が風邪を引きそうで心配だった。
「小降りになったらすぐに失礼しますね」
こんな状況では、断ったほうが気を遣わせると思った。
「行きましょう」
強い雨の中に彼女は足を踏み出した。
サンダル履きのすねに泥水のしぶきが跳ね上がる。
彼女の家までの道は覚えているが、後をついていった。
出ないための鍵 5
「あれから、どうですか」
彼女はチワワを抱き直し、うつむいた。
「隣町に映画を観に行きました。映画館で観たのは小学校のとき以来でした」
「ひとりでですか」
「はい」
「ほお」
僕は目を丸くして口もとをゆるめた。
「楽しかったですか」
「ええ。ひとりで観ると、思い切り泣いたり笑ったりできるんですね」
彼女はチワワの頭をなでた。
「家の人には言ったんですか」
言ったほうが悪いようなニュアンスで訊いた。
「黙って行って、黙って帰ってきたんですけど、帰ってきて部屋の前に置いてあったあたたかいごはんを食べたら、急にしゃべりたくなって」
僕は目だけ動かして彼女を見る。
「降りた駅の様子とか、映画のあらすじとか話したら、話しているうちにおなかがいっぱいになりました」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「子どもみたいですね」
僕は彼女の腕からこぼれているチワワの前あしを見ていた。
細くて毛並みがよかった。
「よかったですね」
ぼくはチワワの頭をなでようとした。
大きく口を開けられたので噛みつかれると思ったけれど、目と目の間に指が触れると大人しくなり、彼女の腕にあごをのせた。
雨はやまない。
「うち、来ますか」
出ないための鍵 4
2週間後、僕はまた彼女の家のそばへ出かけた。
前に会ってから1週間で気がかりになったのだけど、仕事でどうしても足を運べなかった。
梅雨が始まっていた。
天気がもてば公園で会えるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、公園に着く頃には本降りになってしまった。
彼女は、木の下で傘を差し、こげ茶とクリーム色のチワワを抱いていた。
ドレスは前と同じ形だったが、ユリの花のひとつがベージュがかって見えた。
「ごめんね」
待たせていたようで悪い気がしたのだ。
約束なんてしていないのに。
彼女は困ったような顔をして笑った。
「こんにちは」
長い髪の毛先と、ドレスのすそが雨に濡れていた。
「そのワンちゃんは」
「公園に迷い込んで来ていて。抱き上げたらざあざあ降ってきたんです」
チワワは落ち着いていた。
大きなくりっとした目で僕を見上げていた。
「飼い主さんは」
「わからないんです。近くの人だと思うんですけど」
雨は激しくなった。
木の下にいるのに、彼女と僕の傘に大きな雨だれの音がする。
「少し待てば、やみますね」
何の確信もないのに言った。
雨はそういうものだと考えていた。
「そうですね」
彼女の声には、ほんの少しだけ不安の響きが含まれていた。
チワワの行く末が気になっているのだろう。