すべり台に登るには、はしごとアスレチックのようなロープを編んだ目の大きな網とがある。 安子は網を登り始めた。 「え、何よ。俺が下りるって」 安子が登るのよりずっと早く恭輔はするすると猿みたいに下りてくる。 同じ高さになったがここで言っていいも…
したいことは由花をいじめることではなかった。 それだけがはっきりした。 一度クラスの数人と授業を抜け出して行った公園に足が向かった。 あのときは恭輔も居た。 公園は丘の上にある。駆け上がるのは難儀だ。 心臓がめいっぱい膨らんだまま拍動して苦しく…
物静かで本を読んでいることの多い由花は、休み時間に近くに座る者がいると本を置いて二、三言葉を交わす。 なんだか占い師さんみたいなポジションだ。 由花が辛いと皆辛い。 安子にもそれなりに訳はあるのだろう。 授業が終わる頃には教室に戻ろうと思う。 …
校長先生はいじめはないと言った。 けれどクラスの少なくとも三分の一は由花がいじめられていると知っている。 恐らく半分以上は知っているだろう。 安子は由花に自分の宿題をやらせておいて、みんなの目の前で破り捨てる。 そして由花のノートを横取りする…
僕は、キーケースから僕のアパートの部屋の鍵をはずして、彼女に返してもらったキーホルダーにつけた。 キーケースに彼女の家の鍵をつけた。 「鍵、返しますね」 僕はまだ新しくて革のぴかぴかしているキーケースごと彼女に鍵を渡した。 彼女は泣きそうな顔…
公園の中ほどにあるベンチは照明に照らされていたが、上を蚊柱が渦を巻いていた。 それでなくとも、夜の公園の真ん中に彼女を連れて行く気は起きなかった。 入口そばのいちばん大きな明るい街灯の下に入り、ハンカチを地面に広げ、物をひとつひとつ出してい…
鍵のありかは気になるが、黙っているのも息が詰まる。 「キーホルダーは、この間気づいていたんですけど、言いそびれてしまいました」 僕は頭を掻く。 「やっぱり、あなたのだったんですね」 驚けばいいのか、どうすればいいのか。 僕は彼女の顔を見る。 「…
目が覚めると、掃き出し窓から見える庭は、住宅街を照らす街灯の光を常緑樹の葉が反射しているほかは暗かった。 彼女は僕が眠ってしまったときと全く同じ位置でカーペットの上に正座をしていた。 「うわ、こんな時間まで。すみません」 夜の8時くらいだろう…
気がつくと、僕は彼女の家のソファに横になっていた。 「わあ、ごめんなさい」 僕はひたいに手を当てて体を起こそうとした。 ひたいには熱を取るシートが貼られていて、わきの下とももの間にはタオルを巻いた保冷剤がはさめてあった。 ものすごくだるい。 体…
次に彼女を見かけたのは、強い日射しが降り注ぐ暑い日だった。 彼女は、前と同じ白いドレスを着て、大きな麦わら帽子をかぶっていた。 ぼくは、炎天下の中を歩いて来ていてふらふらだった。 公園の中に入り、ペットボトルの水をごくごくと飲んでいると、真横…
「お父さんはほとんど居ないのに?」 僕は素朴な質問をした。 「ええ」 彼女は外を見たままだ。 チワワが彼女の正座した脚にお尻をつけて横になる。 「あなたの部屋は」 「1階です」 前に来たときの、食事がのせられているお盆が廊下の床に置かれていたのを…
リビングに、ドライヤーの風の吹き出る音と、彼女の嗚咽、何度もの鼻をかむ音が響く。 彼女を見上げていたチワワは、彼女のかたわらでふせをしてじっとする。 泣くことが必要なんだな。 視界の中に彼女を置いて乾かす。 片方の裾がほとんど乾き、彼女が水気…
「ドライヤー持って来ます」 僕の顔を見上げた彼女の目は涙がたまり、赤くなっていた。 「いいですよ、大丈夫です」 僕の返事を待たずに彼女は廊下へ飛び出して行った。 チワワは、彼女の動きを首を動かして追ったが、タオルの山から離れなかった。 なんだか…
少し寒気がしてきた。 彼女はハッとした顔になった。 「タオル、持ってきますね」 彼女はひざの上のチワワをソファの上に移して立ち上がり、廊下に小走りで出て行った。 真っ白でふかふかのバスタオル2枚と、フェイスタオルをたくさん両手で抱えきれないほど…
ドライヤーは、彼女が取りに行きづらいところにあるのだろうか。 彼女の次の言葉が出ないので、僕は一番気に掛かっていたことを口にした。 「お手伝いさんとは、うまくいっているんですか」 彼女は両手をひざにそろえたまま、首をかしげた。 「うまくいって…
お盆に氷を入れたアイスコーヒーのグラスをのせて彼女が戻ってくると、チワワも一緒に戻ってくる。 彼女は僕の前のテーブルにグラスを置いた。 ガツン、と音がした。 来客の相手をするのはいかにも不慣れな感じだった。 「ごめんなさい」 「いや、大丈夫」 …
玄関のタイル敷きの土間にはバケツが置いてあり、濡れぞうきんがかけられていた。 チワワは彼女にあしを拭いてもらい、玄関の床に下ろされると、廊下の右側のドアの開いた部屋へ小さなあしを動かし入っていった。 彼女は同じぞうきんで自分の泥だらけになっ…
家の前に着き軒下に入ると、僕は彼女の傘を受け取りたたんだ。 彼女は玄関ドアのノブをおもむろに手前に引いた。 ドアは開かなくて、彼女の体がガクンと揺れる。 彼女はチャイムのボタンを押す。 何も反応がない。 「こんな雨なのに、タエコさん、出かけたの…
彼女は僕たちの目の前にかぶるように垂れている枝先の向こうの、雨でグレーに見える住宅街をぼうっと見ながら言った。 僕のチノパンは地面からの跳ね返りでずいぶん濡れてしまっていた。 それよりも、薄着の彼女が風邪を引きそうで心配だった。 「小降りにな…
「あれから、どうですか」 彼女はチワワを抱き直し、うつむいた。 「隣町に映画を観に行きました。映画館で観たのは小学校のとき以来でした」 「ひとりでですか」 「はい」 「ほお」 僕は目を丸くして口もとをゆるめた。 「楽しかったですか」 「ええ。ひと…
2週間後、僕はまた彼女の家のそばへ出かけた。 前に会ってから1週間で気がかりになったのだけど、仕事でどうしても足を運べなかった。 梅雨が始まっていた。 天気がもてば公園で会えるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、公園に着く頃には本降りになって…
「すてきなドレスですね」 「ありがとうございます」 また沈黙に戻る。 「こわいんです、あの家」 「何がですか」 「父が半年に一度帰って来るんですけど、それ以外は息が詰まるんです。ごはんもあの人と食べる気がしないんです」 「無理して一緒に食べなく…
家に帰り、机の上に鍵を置いて考える。 このまま持っていても仕方がない。 それに、鍵だから捨てるのも気が引ける。 私も困るんです、という言葉が気に掛かる。 やはり何とかして会うしかないようだ。 住宅街には合わなかったが、ぺたんこのサンダルに手ぶら…
住宅街を歩いていたら、いつの間にか女の子が前を歩いていた。 何も荷物を持っていない。 手ぶらには似つかわしくない、ユリの花をふたつ伏せて重ねたような白いドレスを着ている。 足元はかかとの低いサンダルだ。 女の子はふいに鍵を落とした。 形はふつう…
小さな女の子のリヨンは、家の前の空き地で絵を描いて遊んでいました。 地面ばかり見ていたので、リヨンのすぐ近くに来た旅人がそばの石を拾い上げるまで、旅人に気づきませんでした。 大きな手が石を拾い上げて、石が上に運ばれるのを、リヨンの目は石に吸…
魂追跡サービスのシェアナンバーワンを誇るソウル・チェイサー社のハートン・ロックウェル取締役の役員室に、キジュ課長とカグラザキ係長が生命保険会社とのタイアッププロジェクトについて進捗を報告しに来ていた。 「キジュ、競合のリサーチデータはどうし…
魂追跡サービスは信仰している宗教によってサービスを受ける期限を決める場合が多い。仏教徒なら49日、キリスト教徒やイスラム教徒は10日から2週間、無宗教の場合は3週間程度とするのがほとんどである。無期限というのはない。いつまでも故人のことばかりで…
「お父さん」 「お父さん死んじゃいやだ」 「あっ、お父さんの魂が地図に表示された」 「じゃあ死んじゃったの」 「まだ家の中にいるよ」 死後の生命エネルギーの移動が解明され、生命エネルギーが肉体から離れることを死と定義するようになった。生命エネル…
「お待たせしました」 明人は、ビルの外壁に寄り添うようにして立っているOL風の制服姿の女性に声をかける。 「いいえ、待っていませんけど」 女性は訝しげに明人の顔を見る。 「僕のような人を待っていませんでしたか」 「僕のような人って?」 「例えば、…
混乱している。 考えたくないことを考えなければいけないからだ。 降りてきたら何か言わなければ。 美咲は椅子を立つ。 お金をかけたくないわけではない、ということは。 美咲は膝から崩れ落ちそうになる。 どうしようもないことを責められても仕方がない。 …