碧井 ゆきの物語

こんにちは。碧井ゆきと申します。ここにはわたしが書いた小説をのせています。

あなたとコーヒーを (上)

いつもの銀行の壁にもたれてコーヒーショップで買ったブラックのコーヒーを飲んでいると、グレーのパナマ帽をかぶった初老の男性が帽子に手を遣りながら僕の前で立ち止まった。

「そちらのコーヒーはどこで買われましたか」

道を聞かれるのかと思っていたけど違った。

この辺で紙製のカップを持ってコーヒーを飲んでいるならだいたいあの角の店のだと考えそうなものだ。

カップに店のロゴだって入っている。

「そこの角のコーヒーショップです」

愛想が悪くならないように気をつけて答えた。

男性は恐縮そうに首と肩を小さく縮めた。

「とても香りがいいもので。突然すみません」

謝られるとこちらが悪いことをした気になる。

「いえ。少しびっくりしましたけど」

「それだけなんです。ほんとにそれだけなんです」

男性は帽子をてっぺんから押し、目が隠れ過ぎたというようにもう一度つかみ直して上げた。

「いいんですか」

「ありがとうございます」

男性は帽子に手を遣ったまま腰をかがめた姿勢で僕に背を向けて駅へ向かって歩いて行った。

 

次の週は少し暑かった。

同じ曜日の同じ時間に、前の週と同じように銀行の壁にもたれて透明のプラスチック製のカップに入ったアイスコーヒーを飲んでいると、前の週と同じ男性が帽子を脱ぎながら、

「そのコーヒーはあの角のコーヒーショップのものですか」

と声を掛けてきた。

「ええ。買って飲んでみてはいかがですか」

少し声に険が出ていたかもしれない。

けれど男性は、

「それもそうですね」

と柔らかく笑って僕から離れ、コーヒーショップへ入っていった。

男性は僕が飲んでいるのと同じ大きさの透明のプラスチック製のカップを持って出てきて、銀行の壁を背にして僕の隣に立った。

中味も僕と同じブラックのコーヒーのようだ。

「お店で買って外で飲むというのは慣れていないんですが、気分のいいものですね」

「僕はいつも外なので」

僕よりもずっとおいしいものを飲み食いしていそうだからおかしな感じがした。

「ふた月前に妻を亡くしましてね、外で人とこうやって話すのは久しぶりなんです」

コーヒーを啜ろうと口に当てたカップを離した。

「それは辛いですね。お悔やみ申し上げます」

よく知りもしない人にどう言っていいものかわからず、後の言葉はごにょごにょと言った。

「いやいや、突然こんな話をされても気分が悪いですよね。すみません」

男性はコーヒーを買いに行ったときと同じ明るい調子になった。

「若い人というのは、どうも話を聞いてくれると思わせる吸引力がありますね」

なんだかよくわからなかったが、こちらのことを悪く受け止めていないことはわかったから、

「そうなんですか」

と答えた。

「ええ、それはもう」

男性はまるで孫でも見るように目を細めて僕を見た。

「さて、もう行かないと」

男性は腕時計の文字盤を見て、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーをストローでずずっと吸って氷だけ残してすべて飲んだ。

「私は、安立といいます」

唐突に名乗られて驚いたが、こちらも名乗らないほど不快には思わなかったので、

「僕はケンヤって呼ばれてます」

と言った。

「ケンヤさんですか。いい名前ですね」

安立と名乗った男性は宝物を見つけたような目をしていて、僕は少しとまどった。

「今日はこれから昔の友人と博物館へ行くんです。先週お話できたら友人に声を掛ける元気が出ましてね」

途中から飲まなくなったアイスコーヒーのカップの外側には、たくさん水滴がついていた。

「よかったですね」

「ありがとうございました」

安立さんはされる側に負担にならない程度のていねいさで僕に頭を下げた。

それでも勝手にいい人にされたようで収まりが悪かった。

「いえ、僕は何も」

安立さんは笑顔で帽子をかぶり、

「それでは、失礼します」

と言って、少し溶けた氷だけが入っている透明のカップを持って駅に向かって行った。

 

 

 

 

 

 

※「あなたとコーヒーを」は、2015年の梅雨の頃に書き始め終わり頃に書き上げ、同年7月に「第1回藤本義一文学賞」に応募したものです。枚数要件を満たしておりませんでした。