これから a
「カズくんがね、別れたいって言うのよ」
「えっ。先週のバーベキューで楽しそうにしてたじゃない。香子(こうこ)ちゃんとも今までどおり仲がよかったし、うちのさみえとも遊んでくれてたよね」
「川遊びが好きだから。誰だっていいのよ」
美咲の言い方には毒があるが、不幸の度合いではこちらの分が悪いのでしばらく我慢すると決める。
「どうしてかなあ」
「恋がしたいって言うのよ。好きな人がいるの、と訊くといないって言うの」
美咲は目を伏せたまま落ち着いた風を装って話す。
「訳が分からないでしょう。そりゃあ、私は〝ない〟けれど」
これだけの情報で、いいも悪いも、アドバイスも、いくらか近いような自分の体験も話す気にならない。
ずれていれば、傷口を大きくしてしまう。
美咲の気持ちを考えなければ、言いたいことは出てくる。
原因は〝それ〟なの?
今までは愛し合っていたの?
表面だけの関係ではないとは思っていたわ。
美咲はこれからどう生きていきたいの?
たぶん、最後の文が美咲の答えを引き出すのにいちばん近道の質問なのだ。
けれど今、美咲に尋ねても考えられないだろう。
大きなかさぶたの端をめくってみるとまだ生傷だ。
いくらでも話を聞くよ、とも言えない。
同じ空気を、どんなに重苦しくても、とりあえず今日は一緒に吸おうと覚悟する。
そのくらいしかできないのだ。
それがいちばん今の美咲には意味があることだ。
恐らく、ハムカズくん(美咲の旦那さんは公数(きみかず)という。仲間たちにはハムカズと呼ばれている)にはもっといろいろなことを言われているのだろう。
財産の分け方。
香子ちゃんのこれからのこと。
持家である家にはどちらが住むのか。
全部は決まっていなくても、これからの課題として挙げてはいると思う。
美咲はその手前の「別れる」が受け入れられないから、とても別れに付随してくる整理していくことまでは考えられないだろうと思う。
感情の整理と、落ち着こうとすることに割かれて、頭の中のメモリーにその余裕がないのだ。
お金のことを考えると、案外、なんだこんなことか、道筋が見えてくるものだな、と思える。
けれど、考えるだけで反駁している気になるのもわかる。
謀反のネタになるかもしれないことを嗅ぎつけられたら即離縁される、と思っているのだろう。
自分はもっと価値のある存在なのだ。
経済的に強い者の一存で処遇を決められるような無価値のものではない。
どうして小さくなるのだろうと思うけれど、大して趣味も持たず、そこそこ名の通った大学を出て有名企業に就職し、ハムカズさんと出会い、結婚してからほぼ専業主婦だった美咲には無理もないことかもしれない。
いつも自己承認には誰かの傘を使っていたのだから。
それでうまく行っているときはいいのだ。
万一のための準備ばかりして生きていると、誰も寄って来ないだろう。
ようやく言ってもよさそうなことが見つかるが、どちらの表現にするか迷う。
「ハムカズさんは、待つと言ってくれているの?」
結局、普通の物言いにした。
急げと言っているの、と言うか悩んだのだが、今取り乱させても感情が爆発するだけで、考えは1ミリたりとも進まないと思った。
「待つとは言ってないけど」
のどから絞り出すような声だ。
こちらまで苦しくなる。
「急いでとも言ってないのね」
「うん」
美咲は小さくうなずく。
私はレジ袋から緑茶のペットボトルを出して美咲に渡す。
「のど渇いたね」
自分の分も取り出してフタをひねる。
明日の朝の私とさみえの分だがまあいいいだろう。
また買いに来よう。
美咲は、ごめん、ありがとう、今度払うね、と言い、私は、いいのいいの、気にしないで、と手を振る。
けれど、レジ袋の中のしょうが焼き用の豚肉の鮮度が気になってきた。
秋風は立って来たが、今日は蒸し暑い。
大丈夫、大丈夫。
買い直せばいいんだから。
美咲は、ペットボトルのフタをひねって開け、ふた口ほど飲む。
口からペットボトルを離し、アスファルトの路面と、向こうに見える家の塀の境い目あたりを見つめる。
「考えを」
「止める」
すぐに解決できなさそうなことは、いったん考えるのを止める。
私たちは、そうやって進んできた。
美咲はもう一度ペットボトルに口をつける。
私もゴクゴクゴクと飲む。
「よく寝るわ」
美咲は困った表情を隠し切らないで笑顔をつくる。
「夕飯つくらなくたっていいわよ」
私はおどけたふりをして怒った顔をつくる。
「あはは。今日は2人分のちらし寿司にしようかな」
美咲は笑う。
私も笑う。
けれどきっと、3人分つくって待ってしまうのだろう。
今はそれでいいんじゃないだろうか。