碧井 ゆきの物語

こんにちは。碧井ゆきと申します。ここにはわたしが書いた小説をのせています。

これから j

「お待たせしました」

明人は、ビルの外壁に寄り添うようにして立っているOL風の制服姿の女性に声をかける。

「いいえ、待っていませんけど」

女性は訝しげに明人の顔を見る。

「僕のような人を待っていませんでしたか」

「僕のような人って?」

「例えば、年格好とか、顔つきとか、結婚相手を真剣に探しているとか」

「ええっ」

女性は初めて笑顔を見せる。

「もしかして、そうでしたか」

「あの、いいえ、どれも合っていないんですけど」

「あらら」

「でも楽しかったです」

「そうですか」

「ありがとうございます」

明人は会釈をして女性から離れる。

今日はちょっと急ぎ過ぎただろうか。

笑顔を見られたから上等なほうではある。

俺にも真剣さが足りなかったのかもしれない。

相手に時間があるかどうかなど配慮しなくてもいいのに。

大人なのだから、受け入れない理由があれば説明してくるだろう。

うまくいったときはたまたまだったのだろうか。

相手の受け皿が大きかったのかもしれない。

相手の能力が高いという偶然に頼っていてはいけない。

女性に言った言葉には嘘がないのだから、そこは自信を持っていい。

前は年格好と顔つきまでで止めていた。

そこでNOと言われても、どこかありませんかと訊くと目がいいですねとか、スーツの袖口から出るカフスののぞき具合がいいですねなどと考えてくれて話が続き、付き合ったこともある。

けれど、しばらくすると不満が燻ってくるのだ。

何のために相手と会う時間をつくり、気を配るのか。

その日その日のくさくさしたものを晴らしているだけではないのか。

それもできているのだろうか。

深酒と変わりなのではないか、と思ったとき、目の前で服を脱いだ女の裸が色褪せて見えた。

意味が無いものだった。

それでも体は動くのだが、別れまでの時限装置は意識の下でスタートを切っていたように思う。
条件を加えることでもてなくなることを認めたくなくて、それからも同じような付き合いを数回重ねた。
もう面倒になっていた。

試験を受けずに入れる高校があるのに留年してる中学生みたいだ、とある朝に思った。
やっぱり真剣に結婚相手を探している、と言わないといけない。

結婚する気がないか、その気持ちに気づいていない女性に結婚のことを考えさせるのは明人にはどうしてもできないのだった。

 

 

 

*この文は、2016年11月に投稿しました。ブログの掲載順の都合上投稿日時を変えてあります。

これから i

混乱している。

考えたくないことを考えなければいけないからだ。

降りてきたら何か言わなければ。

美咲は椅子を立つ。

お金をかけたくないわけではない、ということは。

美咲は膝から崩れ落ちそうになる。

どうしようもないことを責められても仕方がない。

性生活は夫婦にとって絶対のものなのだろうか。

少なくとも、美咲はそうではないと思ってきたのだ。

築いてきたもの。香子。香子のこれから。

一緒に居た時間と、それを守ること。

美咲にとって、夫婦とはそのようなものを守るチームだった。

公数が上着を羽織って階段を降りてきた。

今、ものずごく恨みのこもった形相になっていると思う。

公数の手がリビングを出るドアのハンドルに伸びる。

「どうして。一年に一度のキスでいいから。出て行くことないじゃない」

それさえしてくれれば、公数が外で何をしてきても構わなかった。

言わないでくれればいい。ただそれだけだ。

公数の動きは一瞬止まったが、ドアを開けて玄関に出て行った。

玄関ドアを開けて外に出て行く音がする。

一人になった部屋は静かだった。温度が下がった気がする。

今、この空間には何があるのだろう。

今までの年月は何だったのだろう。

体を壊したことでお金も失うのか。そんなことが許されていいのか。

美咲には、この二つを分けて考えることができなかった。

 

 

 

*この文は、2016年11月に投稿しました。ブログの掲載順の都合上投稿日時を変えてあります。

これから h

公数は青菜の煮びたしをつついている。

葉の一枚を箸先でつまむと葉がびろっと伸びる。

葉をまとめて出汁につければおいしいものを、伸びてたれ下がったままの状態で口を横から持っていき、食べる。

あまりおいしそうに食べているようには見えない。

香子はソフトボールの遠征試合で今日は帰りが遅い。

公数と二人の昼食はサンドイッチにして軽めだったからおなかがすいて、夕食の用意は早めの五時半に支度ができた。

小鉢に盛った青菜の量は大した量ではない。

前の公数だったら三口ほどで平らげていた量で、美咲が夕食の準備を終えて椅子に座る頃には食事の半分くらいが終わっていたのに、青菜の煮びたしはまだ葉の一枚目だ。

身のしまった白身の魚の粕漬けは、公数のをいちばん大きいものにしておいたが、腹身から食べて、背身のほうには手をつけていない。

後に座った美咲はもうおかずの半分ほどを食べて、追いついてしまった。

「ごちそうさま」

公数は箸を置く。

「こんなに残ってるわよ。食べないの」

「入らないんだ」

公数は力のない声で答え、立ち上がる。

おかずの残っている皿を流し台に持っていく。

置いておいてくれれば、美咲は適当にラップに包んで、翌日の昼にでも食べる。

いつもなら夕食後の公数はリビングのラグの上にゴロンと横になるが、二階の寝室へ上がる階段のほうへ足を向け、二、三歩で足を止め、美咲を振り向いた。

「コンビニに行ってくるわ」

「そう、行ってらっしゃい」

雑誌でも買ってくるのだろうと考えた美咲は軽く返事をした。

「メシが足りないから」

美咲は耳を疑った。

「食欲がないんじゃなかったの。あんなに残して。食べればいいじゃない」

体調とか好みとか値段を考えて作るのに残されると腹が立つのだ。

「粕漬けは嫌いなんだ」

「前は何も言わなかったでしょう」

「本当は好きじゃないんだ」

スーパーで下味付きで売られている魚や肉は本当に便利でよく利用していた。

「言ってくれればいいのに」

鼻から息を吹きだす。

公数はためらいがちにじっと美咲の顔を見る。

「ここを出ようと思ってるんだ。出たい」

「何言ってるの」

別れようと言われていたのだからいつか出る言葉だっただろうに、思いがけなく驚きの声を上げてしまう。

どこかで脅しだけだと思っていた。

「一緒に居ても、何もないだろ」

別れたいと言われたときの理由は到底納得のいくものではなかったから、いろいろ考えて改められることは変えてきたつもりだ。

料理は公数の好みのものを増やし、公数が話すことがあればほかのことに優先して話を聞き、PTAの役員の仕事や実家との関係で相談に乗ってほしいことがあるときは以前より落ち着いて言葉を選んで話すようにしてきた。

けれど、何もない、というのはあんまりだ。

誘っても声を掛けても背を向けられてしまうのだ。

最近の公数は、朝目が覚めると隣に居ず、リビングのソファで寝ていることが多い。

「何もないって、だって」

次の言葉が出ない。

公数の言う「何もない」は、公数と美咲の関係のことではなくて、公数の状態について言っているのだとしたら、それは美咲が何と言おうと公数にとって真実なのだ。

「私にはお金をかけたくないってこと」

「いや、そういうことじゃない」

公数は寝室への階段を上がっていく。

足音を聞きながら美咲は頭を整理しようとする。

 

 

*この文は、2016年11月に投稿しました。ブログの掲載順の都合上投稿日時を変えてあります。

これから g

ときどき、不安になる。

清星と始まったときは、代わりに過ぎないのだからと、考えが浅かった。

今にして思えばなのだけれど。

知世子さんの体が良くなれば、終わってしまうのだろうか。

治療の甲斐がなく亡くなってしまったら、清星は瑠璃とずっと今までのような関係を保つのだろうか。

その時はその時で、ふっと留めていたものが切れて、瑠璃から離れていくのだろうか。

 

それは嫌だった。

清星には、会いたいときに会える存在でいて欲しかった。

清星には瑠璃は代わりでも、瑠璃には清星は代わりではないのだ。

ずっとこのままでいてほしいと思った。

 

知世子さんにもこのままでいてほしい。

治るでも、亡くなるでもなく、変わらずにいてほしい。

清星と知世子さんの関係が、知世子さんの病状に関係がないかもしれないのに、そんなことを考えてしまう。

 

今のままで平均余命を果たせるなど考えにくいのに。

どちらかというと、亡くなる可能性のほうが高いのだ。

清星がすっぽりと手に入る瞬間を思い喜びに打ち震え、また、清星が変質して瑠璃のもとを去っていく恐怖に怯える。

これから f

「ほんとにいいのかよ、それで」

「もう決めちゃったよ」

「なんだかもう、言いたいことは山ほどあるけどな」

紋二はモヒートのグラスを両手で囲むように持つ。

長袖Tシャツの袖口から出ている手の甲は毛深い。

紋二が離婚すると聞いたときは驚いたが、理由を聞いたときは、あああ、と嘆息に近い声が出ただけで、疑問は湧いてこなかった。

 

紋二の今のパートナーは身長は紋二や公数とほとんど同じだが、紋二よりは線が細い。

自分は紋二のタイプではないんだと思えるから、リラックスして会えるというのは正直なところある。

紋二も同じようなものだろう。

 

「手術したからって、セックスできないわけじゃないんだろう。工夫すればいいじゃないか」

紋二に言われると堪える。

確かに、やり切った訳ではない。

「過去の栄光か」

公数は目を閉じる。

心がざらつく。

だが、腹が立つわけでもないし、言い返す気も出てこない。

「しばらくなかったのか」

「そうだな」

「どうして」

我ながらいちいち口が重い。

分析し切れていなかったと気づく。

「不憫なのか」

胸の一部が周りの筋肉を引っ張りこむように痛む。

「それもあったかもしれないな」

「欠陥を、知るのが、怖かった、と」

紋二は、一語一語切るように言った。

 

この鏡はひどいな。

自分がガイコツに見えてくる。

自分のことを見つめるのが怖くて、紋二をどう見ているかを考えてしまう。

 

「逃げんなよ、お前。まだ自分のことを考えてろ」

頭の中に鎧ができたようになり、自分の考えが見えなくなる。

 

公数は再び目を閉じてしまう。

30秒ほど経った後、紋二は、

「だめだな」

と言い、鼻から息を出し、肩から力を抜く。

 

公数はおそるおそる目を開ける。

「考え続けると、出てくることがあるんだけどな」

平和な表情でモヒートを飲んでいる紋二が変わらず居る。

 

「俺はさあ、結婚がまちがいだった。いい時もあったよ。でもそれ、肉欲だった」

紋二は氷に乗っかったミントの葉がずれ落ちないように、モヒートの入ったグラスをゆっくりと回す。

昔話をするような楽しそうな笑顔をたたえている。

 

紋二はグラスをテーブルに置き、肘をテーブルにつき、いたずらっぽい目でこちらを見る。

「ほかに好きな人でもできたのか?」

肘をついたほうの手と、反対側の手を組む。

「いや」

紋二の顔が落胆と不安の混じった表情になる。

誰かの顔が浮かんだ気がするが、これは好きと言う感情なのだろうか。

これから e

「気持ち、変わらないの」

「うん」

電話口の向こうで、瑠璃は気弱な声を出す。

「清星(きよぼし)さんの所に行きたいんじゃなくて」

「わからない。それでもいいと思ってるわ」

「ひとまかせじゃない?」

「決めることのほうがストレスなのよ」

 

トシ子は旅先のガラス工房で小物をつくるのが好きな瑠璃の話がもとで取材に行き、一段落ついた報告がてら電話を入れた。

清星のことを聞いたのは取材に行くことが決まってからだ。

 

瑠璃がいつもの旅のようにガラス細工をつくる体験のできる工房を探すのに観光案内所に連絡を入れ、紹介されたのが窓口役を務めていたガラス工房組合の青年部部長だった清星さんだった。

体験とはいえ何度もガラス細工をつくっているので、体験メニューには載っていないが、月に一回ボランティアに行っている知的障害の施設に通う人たちと遊ぶための大きなおはじきをつくりたいと申し出たのだと言う。

 

旅に出かける前に手順や費用などを連絡し合い、その後は年に二回ほど会っているらしい。

聞いた事実よりも、机を並べて勉強した仲なのに知らないことがあるほうに驚いてしまった。

トシ子が取材に行ったときには、清星さんはいなかった。

組合の次長の人が出てきて若い人に継いだ。

誰の口からも清星という名前が出てこなくて、まるで町から消えたようだった。

 

「法於さんへの気持ちは、弱くなってないの」

「変わってないと思うわ。かわいいわよ」

小さくぷっと噴き出してしまう。

瑠璃の言い方は真剣そのものなので、変わりかけた表情と声色を戻す。

そして、

「本当かなあ」

とカマをかけてみる。

 

ふざけた声を出して、下世話なことも聞いてみようか。

「どっちがいいのよ」

「ええっ」

ニュアンスで伝わったのだろう。

瑠璃はとまどった声を出す。

その声が艶っぽくてざわざわしてしまう。

「ちょっと……細かく言えないわよ」

 

「やだあ、細かいことなの」

おかしさにたまらず笑い出してしまう。

細かいこと。

それはプライバシーに関することよね。

友人の幸せが嬉しいのだか、うらやましいのだか、涙が出てくる。

「比べる基準が乗っからないの」

言い回しがおかしいが、だからこそ本音なのだろう。

これから d

今朝はオムレツとウインナーがメインだ。

昨夜の夕食は公数には少なかったかな、と思い、公数の分のオムレツは卵3個分だ。

後に家を出る香子の分と自分の分を一緒につくる。

卵4つを使ってつくり、皿にのせるときに切り分ける。

香子は中のチーズが溶けているのがお気に入りだ。

皿に盛りつけるときは、香子の皿に2.5個分、自分の皿に1.5個分くらいにして分ける。

公数が寝室のある二階から下りてきた。

三日前にあんなことを言っていたが、美咲がつくった食事はしっかり食べる。

「おはよう」

今までと同じように朝の挨拶をする。

公数の寝癖は今朝はいちだんとひどい。

「おはよう」

公数はしわがれ声で言う。

美咲はキッチンに向かい直す。

背中でダイニングの椅子を引く音がする。

「あれ、考えた」

香子が起きてくる時間を考えると、しらばっくれている余裕はない。

「まだよ。そんな急に」

フライパンの中のオムレツはあとほんの数秒で上げるのにいい頃合いだ。

皿に盛って少しの余熱で香子の好みの火の通り加減になるだろう。

しかし、公数と面と向かい合いたくない。

公数は、いただきます、と言って食べ始める。

習慣で言っているのか。

ドアと廊下を隔てている香子には聞こえないと思う。

スプーンでオムレツをすくい取り口に運ぶと、公数の頬がゆるむ。

公数はハムが好きなので、今朝は短冊に切ったハムを入れてあった。

公数は、しまった、というように真顔に戻る。

「計算くらい、できるだろ」

カアッと頭に血がのぼったが、少し火を通し過ぎた香子の分のオムレツを目にしているので、すうっと引いていく。

鎮まりはしないけれど。

怒る声を出すくらいなら黙っているほうがいい。

オムレツを香子の皿に盛る。

起き出してくる時間だが、気配がない。

「あなたがすれば」

自分の分のオムレツをフライパンにのせたまま、香子の皿に自分の皿からプチトマトを1つ移す。

公数は、プチトマトの口の中で割れる瞬間が嫌だと言っていたが、口に含んだ後ヘタをひねって取り、奥歯で噛み潰す。

「急がなくちゃならないの」

余計なことを言った。

なぜ負けを認めるようなことを言ってしまうのだろう。

「ごちそうさまでした」

公数は立ち、皿を流しに置く。

リビングダイニングと廊下を仕切るドアのガラス部分に、香子のピンクのパジャマの柄がぼんやり透けて見えて、ドアが開き、香子が入ってくる。

「おはよう」

うつむき加減なのはいつものことだ。

「おはよう」

「おはよう。遅いな、間に合うのか」

美咲が笑顔で言って得点を上げた挨拶を、公数の言葉の多さが打ち消してしまう。

もっとも、遅いな、は美咲に向けられたものだろう。