碧井 ゆきの物語

こんにちは。碧井ゆきと申します。ここにはわたしが書いた小説をのせています。

2016-01-01から1ヶ月間の記事一覧

片手袋の彼女(十四)

澄んだ沼の底にはちょっと表面をつつけば舞う柔らかな泥が積もり、小さな魚が強い日の光でできる影を泥に落としながら何匹も泳いでいました。 ほう、かじかだね、と父は言いました。 私は沼の岸にしゃがみ込んで、両手の端をぴったり合わせて水ごとかじかを…

片手袋の彼女(十三)

私は彼女がどんな感覚なのかいつも気になっていました。彼女が私には常に曇りのない表現をしていることはまごうことがないので、あの心臓が止まる直前が人生で最高の瞬間であると信じたくなるような快楽を、彼女は私とどう違って感じているのか知りたくて仕…

片手袋の彼女(十二)

夕食は部屋食を選びました。部屋では彼女に寛いでもらいたくて穴を隠すものを特別身につけてほしくなかったので、御膳を仲居さんが運んでくれている間、彼女には庭の見える次の間に障子を閉めて待っていてもらいました。 牡丹の花を模した器に盛られた刺身や…

片手袋の彼女(十一)

温泉町の駅に列車が到着したときには、風が増して吹雪いていました。 私たちは駅前に数台停まっていたタクシーの一台に乗り込みましたが、その駅舎から出て十数メートル歩く間に頭もコートも雪まみれになりました。 タクシーの運転手は雪まみれの私たちを嫌…

片手袋の彼女(十)

私は自分のマフラーを広げ、膝の上に置かれている彼女の両手の下に四分の一ほどを滑り込ませ、長いほうを彼女の両手の上に掛けました。長いほうをもう一度さきほど彼女の両手の下に敷いたマフラーと彼女の膝の上の間にくぐらせ、最後に余った分を彼女の両手…

片手袋の彼女(九)

出かける日は朝から明るい雲で覆われた空の下を綿のような雪が舞っていました。 彼女はマフラーでは首の穴を隠し切れなくなって、新調したストールを首もとできつくぐるぐる巻きにし鼻まで被せていました。 駅に向かうバス停までのアスファルト敷きの道には…

片手袋の彼女(八)

秋も深まり朝晩の冷え込みに背を丸めるようになったころ、彼女の首の付け根でしばらく留まっていた穴の境い目は動揺しがちになり、ついに首すじを這いのぼりはじめました。 ハイネックのセーターでも隠しきれなくなり、彼女はマフラーを常に首に巻くようにな…

片手袋の彼女(七)

ある日、仕事から帰ってきた彼女が青ざめた様子でコートも脱がないまま先に帰っていた私のそばに来て、 「ねえ」 と言い、右の黒手袋をはずしました。 手のひらの穴は大きくなっていました。手のひら全部を穴が覆い、指のつけ根の皺までも超えそうな様相です…

片手袋の彼女(六)

奥ゆきはどこまでも深く、その優しく抱き留められるような感覚に、私は救われる心持ちになりました。 彼女は手のひらの穴に感動している私を見て昂ぶり、私を強く抱き締めました。 私たちは一緒に暮らし始めました。 派遣先に気に入られ今の職場が長い彼女は…

片手袋の彼女(五)

心地よさを求めたい気持ちが勝り、私はさらに指を押し進めました。 第二関節まですっぽりと収まった指の腹と背は、ふんわりとした圧迫感でくるまれました。 ふと私は、手袋をずっとはめたままでいるけれどいいのだろうかという思いにとらわれました。私はは…

片手袋の彼女(四)

「何も感じないんです」 彼女はどうして蝶は飛べるのかと父親に尋ねる子どものような顔をしました。 「試してみますか」 彼女は右手のひらを開いたまま私の顔を見上げました。私は戸惑いました。目が泳いでいたと思います。それでも彼女の手に巣食っているか…

片手袋の彼女(三)

彼女の手のひらの穴は、間近で見ても真っ黒で、大きさは缶コーヒーの直径ほどでした。奥行きもわからず壁も見えません。形は、アメーバのように縁が波打っていて常に動いています。 近寄って見ると、穴と手のひらの境ははっきりしていなくて、穴は線描のよう…

片手袋の彼女(二)

どう言葉をかけるか考えているうちに、彼女は停まったバス停で降りてしまいました。 私は少し逡巡しましたが、つかんでいた吊り革を離し彼女の後を追って同じバス停で降りました。 私が本来降りる停留所の五つも手前の停留所です。雪がうっすらと道路に積も…

片手袋の彼女(一)

片手袋の彼女 碧井ゆき その日は帰りが遅くなりました。最終バスに乗り込むと乗客はまばらでした。 バスの壁に沿って設置されている三人掛けの長椅子に、女性が座っていました。ベージュのロングコートを着て目を閉じています。 それだけなら気に留めません…