碧井 ゆきの物語

こんにちは。碧井ゆきと申します。ここにはわたしが書いた小説をのせています。

片手袋の彼女(三)

彼女の手のひらの穴は、間近で見ても真っ黒で、大きさは缶コーヒーの直径ほどでした。奥行きもわからず壁も見えません。形は、アメーバのように縁が波打っていて常に動いています。

 近寄って見ると、穴と手のひらの境ははっきりしていなくて、穴は線描のように黒の短いたくさんの線で縁取られているのです。

 彼女は私を見上げました。お互いに黙ったまま数秒が過ぎました。

「だんだん拡がっているんです」

 沈黙に耐えられないかのように、彼女は手のひらの穴のことを話し始めました。

「手袋をはめていれば気づかれないんですけど」

 彼女は深めに息を吸い、続けます。

「脱いだほうが楽なんです」

 彼女は言葉を切りました。

「脱いだ手袋が少しだけ穴にはまるんです。そうすると、落ち着くんです」

 私は初めて口を開きました。

「それで、バスの中では」

 言葉を次ぐかどうか少し迷い、彼女の目を見下ろしました。彼女は私の発した言葉を吸い込むかのような間の後に、

「ええ」

と少し声を低めて答えました。

 うごめく穴を見つめながら躊躇う様子を見せた後、

「でも、入れても何も突き当たらないんです」

と言い、手袋をはめた左手でにぎっていた右手の手袋をコートの左側のポケットにしまいました。

 そして、手袋をはめたままの左の人差し指を右手の穴に入れたのです。私はぎょっとしました。

 けれど彼女は痛みも違和感もないようです。彼女の左の人差し指は確かに右手のひらに差し込まれているのですが、右手の甲を突き破るわけでも出っ張るわけでもなく、何の変化もありません。

「でも、左の指には何か圧迫感があるんです」

 彼女は心底不思議だという風に話しました。

「右手は辛くないんですか」

 私は尋ねました。彼女は目だけ私を見上げて静かに首を横に振りました。

 (碧井ゆき)