碧井 ゆきの物語

こんにちは。碧井ゆきと申します。ここにはわたしが書いた小説をのせています。

ロンサムカフェ -6-

れいみはあらかじめ決めておいた、この店のおすすめメニューの生ハムとハーブのクレープサンドを頼む。 帆波はメニューブックのページを最初から最後まで何度か繰り、うーん、と言った後に、サーモンとアボガドの農園野菜のクレープサンドを頼む。 契約農園…

ロンサムカフェ -5-

ロンサムカフェは、白を基調にした店内の壁のほとんどが、見かけだけのもあるだろうが収納の扉で占められていた。 扉は金色の装飾枠でふちどられ、それぞれ金色のU字形の把手がついていた。 天井から吊り下げられた照明のかさも白で、金色のふちがついている…

ロンサムカフェ -4-

謙人はすっかり見知ったれいみの体を開く。 最初のときはうまくいかせることばかり考えていたが、謙人が入ってくるときに帆波にも入ったものだと思うと体が紅潮し、奥から湧き上がる。 謙人の顔に、トレードマークのブルーのキャスケットをかぶった帆波が重…

ロンサムカフェ -3-

帆波からは夜遅くにもメールがあった。 いつも大まかに約束を決めたら直前まで連絡が来ないからめずらしい。 少し、しつこいな、と感じる。 〝渋谷よくわからないけど、このカフェよさそうと思って。 いつも探してもらってるから。 ロンサムカフェ 渋谷店 渋…

ロンサムカフェ -2-

携帯の電源を切り、体の中のじんとしたものを感じながら、意外に罪悪感がないと自分を客観的に見ている。 シャワールームのドアが開く音がして携帯をバッグの中に慌ててしまう。 ドアはほんの少しだけ開いたまま止まっている。 謙人の肌色があるのがかろうじ…

ロンサムカフェ -1-

「これで子どもができたら、帆波とは友達をやめないといけない?」 れいみは白いシーツを胸までたくし上げながら謙人を見る。 謙人は四角くて大きな尻を見せたまま黙ってシャワールームへ歩いていく。 俺が決めることじゃないということか。 そうだろうな、…

果たし状10

後は愛会梨の名前を世に出すだけだ。次の世代につなげるというのはそういうことだ。そうすれば夜唯子に会える。話ができるのだ。 デザイン画は地方の宝飾会社へ持ち込んだり、大手企業が主催する受賞作品は実際に製作されて販売されるコンテストに応募したり…

果たし状9

夜唯子と離れた当時は、愛会梨はジュエリーデザイナーになるつもりだった。最初から宝飾製品を扱う会社に就職できるかはわからなかったが、デザイン画を描きためていた。どんな形ででもジュエリーデザイナーの肩書きを名乗れるようになるつもりだった。だか…

果たし状8

「ほおー」 「わあ」 LEDのライトの光でいちごゼリーはピンク色に輝いた。 「きれいだね」 「うん、きれい」 二人でしゃがみ込んで輝くゼリーを見つめた。 四年で大学を出た夜唯子はもう働いている。先日社長賞をもらった企画の製品が売り出されたと、実にそ…

果たし状7

夜唯子はボウルのゼリーから手を引き抜き、そのままの手でボウルのふちをつかみ、ベランダのほうへ歩いていった。カーテンをがらっと開ける。愛会梨は追いついてベランダへ出る掃き出し窓のかぎをはずし、窓を開けた。 ベランダには雪が積もっていた。夜唯子…

果たし状6

力が入らなくて両肘まで床につく。 「うっひゃっひゃ」 愛会梨は体を起こし、両手を背中の後ろの床につき膝を曲げる。二人で笑い続けた。 レンコンの穴にいちごゼリーを流し込んで冷やし固めたこともある。抜けやすくするためにしばらく室温に置いた。出てき…

果たし状5

手の両脇の風船がぶにゅっと膨み、膨らんで色が薄くなったのがもうたまらない。「ぎゅわっは」 愛会梨は手を離してしゃがみこむ。床に尻を落とし手をついて横向きに倒れ込む。げらげらと笑いが止まらない。 夜唯子は真ん中がだらんとした風船を見つめて呆然…

果たし状4

言うとおりにしないともっと恐ろしいことがことが起きそうだ。愛会梨にまんなかを託して空いた夜唯子の手が愛会梨の腕を越え、長くしなっているほうの中ほどにもっていった。そしてぎゅうっとねじった。 「ぎゃあ」 愛会梨は恐怖で手を離しそうになるが、今…

果たし状3

夜唯子とはいろいろなことをやった。チューブややわらかいポリエチレン製の容器に入ったものを凍らせたり、それに飽きるとゼリーを詰めたりした。凍らせて遊んで一番印象に残っているのはバルーンアート用の長い風船に水を入れたときだ。長い風船のかたい口…

果たし状2

夜唯子とは近くに住んでいた。大学に入って入学してすぐのオリエンテーションで席が隣りだったのがきっかけだった。学内の説明に来た三年生は濃い顔の真面目そうな外見に反して話が軽快で、男子学生はげらげらと声をあげて笑った。 愛会梨は笑い声が上がりそ…

果たし状1

駅のホームに停まった電車から大勢の人が降りる。私もあの中に入るんだな。この春大学院を卒業する愛会梨はほおづえをついて眺める。要らないものはだいぶ処分した。その日が来れば否応なく手元にある物は持っていくことになる。実家に押し付けてもいいが、…

片手袋の彼女(十四)

澄んだ沼の底にはちょっと表面をつつけば舞う柔らかな泥が積もり、小さな魚が強い日の光でできる影を泥に落としながら何匹も泳いでいました。 ほう、かじかだね、と父は言いました。 私は沼の岸にしゃがみ込んで、両手の端をぴったり合わせて水ごとかじかを…

片手袋の彼女(十三)

私は彼女がどんな感覚なのかいつも気になっていました。彼女が私には常に曇りのない表現をしていることはまごうことがないので、あの心臓が止まる直前が人生で最高の瞬間であると信じたくなるような快楽を、彼女は私とどう違って感じているのか知りたくて仕…

片手袋の彼女(十二)

夕食は部屋食を選びました。部屋では彼女に寛いでもらいたくて穴を隠すものを特別身につけてほしくなかったので、御膳を仲居さんが運んでくれている間、彼女には庭の見える次の間に障子を閉めて待っていてもらいました。 牡丹の花を模した器に盛られた刺身や…

片手袋の彼女(十一)

温泉町の駅に列車が到着したときには、風が増して吹雪いていました。 私たちは駅前に数台停まっていたタクシーの一台に乗り込みましたが、その駅舎から出て十数メートル歩く間に頭もコートも雪まみれになりました。 タクシーの運転手は雪まみれの私たちを嫌…

片手袋の彼女(十)

私は自分のマフラーを広げ、膝の上に置かれている彼女の両手の下に四分の一ほどを滑り込ませ、長いほうを彼女の両手の上に掛けました。長いほうをもう一度さきほど彼女の両手の下に敷いたマフラーと彼女の膝の上の間にくぐらせ、最後に余った分を彼女の両手…

片手袋の彼女(九)

出かける日は朝から明るい雲で覆われた空の下を綿のような雪が舞っていました。 彼女はマフラーでは首の穴を隠し切れなくなって、新調したストールを首もとできつくぐるぐる巻きにし鼻まで被せていました。 駅に向かうバス停までのアスファルト敷きの道には…

片手袋の彼女(八)

秋も深まり朝晩の冷え込みに背を丸めるようになったころ、彼女の首の付け根でしばらく留まっていた穴の境い目は動揺しがちになり、ついに首すじを這いのぼりはじめました。 ハイネックのセーターでも隠しきれなくなり、彼女はマフラーを常に首に巻くようにな…

片手袋の彼女(七)

ある日、仕事から帰ってきた彼女が青ざめた様子でコートも脱がないまま先に帰っていた私のそばに来て、 「ねえ」 と言い、右の黒手袋をはずしました。 手のひらの穴は大きくなっていました。手のひら全部を穴が覆い、指のつけ根の皺までも超えそうな様相です…

片手袋の彼女(六)

奥ゆきはどこまでも深く、その優しく抱き留められるような感覚に、私は救われる心持ちになりました。 彼女は手のひらの穴に感動している私を見て昂ぶり、私を強く抱き締めました。 私たちは一緒に暮らし始めました。 派遣先に気に入られ今の職場が長い彼女は…

片手袋の彼女(五)

心地よさを求めたい気持ちが勝り、私はさらに指を押し進めました。 第二関節まですっぽりと収まった指の腹と背は、ふんわりとした圧迫感でくるまれました。 ふと私は、手袋をずっとはめたままでいるけれどいいのだろうかという思いにとらわれました。私はは…

片手袋の彼女(四)

「何も感じないんです」 彼女はどうして蝶は飛べるのかと父親に尋ねる子どものような顔をしました。 「試してみますか」 彼女は右手のひらを開いたまま私の顔を見上げました。私は戸惑いました。目が泳いでいたと思います。それでも彼女の手に巣食っているか…

片手袋の彼女(三)

彼女の手のひらの穴は、間近で見ても真っ黒で、大きさは缶コーヒーの直径ほどでした。奥行きもわからず壁も見えません。形は、アメーバのように縁が波打っていて常に動いています。 近寄って見ると、穴と手のひらの境ははっきりしていなくて、穴は線描のよう…

片手袋の彼女(二)

どう言葉をかけるか考えているうちに、彼女は停まったバス停で降りてしまいました。 私は少し逡巡しましたが、つかんでいた吊り革を離し彼女の後を追って同じバス停で降りました。 私が本来降りる停留所の五つも手前の停留所です。雪がうっすらと道路に積も…

片手袋の彼女(一)

片手袋の彼女 碧井ゆき その日は帰りが遅くなりました。最終バスに乗り込むと乗客はまばらでした。 バスの壁に沿って設置されている三人掛けの長椅子に、女性が座っていました。ベージュのロングコートを着て目を閉じています。 それだけなら気に留めません…